犬の僧帽弁閉鎖不全症の手術

犬の僧帽弁閉鎖不全症

犬の僧帽弁閉鎖不全症は手術が可能です。

とは言え、犬の心臓手術はどこでも簡単に行えるものではありません。
世界的に見ても、ここは日本の一部の先生が切り開いてきた分野であり、この手術という選択肢が選べるのは、あなたが日本に住んでいるからとも言えるくらいです。

心臓手術は大きな決断ですから、判断材料としての情報は重要だと思います。
ここでは犬の僧帽弁閉鎖不全症の手術についての解説をします。

どんな手術か

簡単に言えば、壊れてしまった僧帽弁を直す手術です。

人工弁に置きかえる手術を想像する人も多いですが、犬の心臓手術において人工弁はほぼ用いられていません。

主な理由としては

  • いろいろな理由で人工弁の用意が難しい
  • 人工弁のところで血のかたまり(血栓)ができやすくなるので、専用のお薬を飲み続けなければいけなくなる

などがあります。

ではどうするのかというと

  • 弁をつなぐ糸である腱索(けんさく)の代わりに、人工の糸をかける
  • 弁がついている穴の周囲をキンチャク袋のように縫い縮める

の2つを行い、僧帽弁の閉まりかたを改善します。

どちらも心臓の中の構造を縫ったり切ったりする手術なので、胸を切って開けるだけでなく、胸の中にある心臓も切る必要があります。
当然ながら何の対策もせず心臓を切ったら出血して死んでしまうので、心臓の動きを止め、中の血液を抜き、心臓や肺の役割を機械に行わせながら手術を行います。
ここまでだけでも大掛かりな作業で、技術はもちろんのこと、高価な機器や材料も必要になります。

左が普段、右が手術のときの血液の流れです。


機材だけではなく、専門の人員も必須です。
執刀医に加えて、助手、麻酔係、器具係、ポンプ係など多くの人が協力し、チームで手術を行います。
どの役割も専門の知識・技術・経験が必要で、誰でもできるものではないため、心臓に強い獣医さんが集まってチームを作っているところもあるくらいです。
そして、手術そのものだけでなく、術後管理も大変です。
知識や技術はもちろん、特に術後はほぼ付きっきりでのケアが必要で、人手や手間がかかります。

僕は心臓手術には直接関わらない立場ですが、心臓手術に関わる方たちの努力は、傍から見ていても頭が下がるレベルです。

僧帽弁以外の弁は手術しないのか

僧帽弁の手術が必要な犬をちゃんと調べると、三尖弁(さんせんべん)、大動脈弁(だいどうみゃくべん)、肺動脈弁(はいどうみゃくべん)という他の弁にもよく問題が見つかります。

しかし、今のところ主に手術の対象になるのは僧帽弁だけです。
悪いところを全て治せれば理想でしょうが、心臓の違う場所を同時に手術するのは簡単な話ではありません。
ただし、多くのケースでは僧帽弁の問題がメインなので、僧帽弁を直すだけでも十分な改善が得られます。

手術をするとどうなるか

手術をした結果は、当然ながらケースバイケースです。
それだけでは想像がつかないと思うので、上手くいくケースといかないケースを挙げて説明してみます。

まず、手術が上手くいくケースですが、これは誇張抜きに劇的に回復します。
たとえば

  • 咳、呼吸困難、倒れるなどの症状が続く
  • 食事もあまり食べない、食べさせてもどんどん痩せていく
  • 大量のお薬が手放せない

のような状態から、手術に成功し

  • 症状なし
  • 毎日元気に駆け回り、食事もよく食べる
  • お薬はすべて休薬
  • そこから何年も生きて、最後は心臓以外の病気でお別れ
  • 飼い主さんもこれはもう寿命だったねと納得

となるケースもあります。

僕個人の経験だけでなく、「僧帽弁の手術をしてから1ヶ月後には多くの症状が改善し、1年後も状態は良いままだった」という報告も出ています(出典)。

一方、全ての手術がうまくいくとは限りません。
手術中にお別れになることは少ないですが、「無事に手術を終えて帰ってはきたが、期待したほどに状態が回復せず、手術後も症状は残るし、お薬も継続。せっかく頑張って手術したのに…」というケースもあります。

手術の成功率

誰もが気になる手術の成功率ですが、この数値は「何をもって成功とするか」で変えられます。

ちゃんとした話をしようとするほど、「あなたにとっての手術の成功とは、具体的にどういう状態ですか?」と考えてもらう必要があります。

その上で参考としてお伝えするならば、まず、手術から生きて帰ってくるだけなら90%以上です。
これは心臓病末期の子も含めての数値ですので、何となく飼い主さんがイメージしがちな、「手術室まで見送ったが最後、そのままお別れ」となる確率はそれほど高くありません。
どちらかと言えば、うまくいかないケースとしては、術後の回復が思わしくなくてお別れするケースのほうが多い印象です。

そんなあれこれも踏まえて、たとえばある施設から発表されている手術後1年での生存成績は

  • ステージB2 94%
  • ステージC 85%
  • ステージD 75%

となっています。(2016年 第105回 日本獣医循環器学会 藤山先生らの発表)

たとえばステージCの犬だと、お薬だけで治療した子たちのうち1年後に生き残っているのは50%を切るというデータもありますので(出典)、手術がうまくいけばかなり生存率が上がることが分かります。

手術をしない場合の生存期間について詳しく知りたければ、こちらのページを参考にしてください。

手術が可能かどうかの判断

「心臓が悪いのに手術できるのか?」という不安を持つ人がいます。
しかし、心臓の手術ですから、手術を受けるのはみんな心臓が悪い子たちです。
最終的にはケースバイケースですが、末期としか言いようのない状態で手術を受け、大復活した子も見てきていますので、心臓が悪いという理由だけで手術を諦める必要はありません。

一方で、たとえば肺や腎臓や膵臓など、心臓以外の問題によって手術のリスクが高いと判断され、先生から手術をおすすめされないケースもありえます。

何にせよ、手術可能かの判断は専門知識と経験を必要とします。
自分1人で考えても判断は難しいでしょうから、もし気になるのなら、手術可能な施設で一度診てもらい、そこで手術が可能かどうか相談したほうが良いでしょう。

手術は何歳まで可能?

「ウチの子はもう高齢だから手術はできないですか?」という質問もよくもらいます。

一般論として、高齢になるほど心臓病は進行しがちですし、心臓以外の臓器の異常も増えてきますから、手術に難が出てきやすいのは確かです。
ある施設では、13歳以上での手術はリスクが高くなるため、積極的にはおすすめしない方針を取っていると聞いたことがあります。

しかし、年齢はあくまで一つの目安であって、本質的には愛犬の状態が重要です。
世の中には病気知らずの元気な50歳の人がいる一方で、病弱な20歳の人もいるように、手術のリスクは年齢だけでは決まりません。
結局、愛犬の状態を総合的にみた上での判断になりますので、ここは獣医さんにお任せしましょう。
ちなみに、これまで僕が見聞きした範囲では、15歳で手術を受けた子が最高齢です。

そしてもう一つ、「手術の後、何年生きるのか?」という視点があります。
仮に愛犬の寿命が15年だったとすると(参考: 家庭どうぶつ白書 2021)、10歳で手術を受けて成功しても余命は5年、13歳なら余命2年という計算になり、手術の価値を測る物差しになりえます。
やはり高齢になるほど、病院側から手術をおすすめされる度合いは減っていきますので、最後は飼い主であるあなたの希望や価値観が問われる形になってきます。

手術の費用

僧帽弁の手術の費用は施設によって違います。

料金は全国一律ではないので僕の知っている範囲でしか話せませんが、術前検査や術後の管理も含めてトータルで200万くらいは考えておいた方が良いかと思います。

獣医療では桁違いの料金なのは間違いなく、誰でも気軽に支払える額ではないでしょう。
金額を聞いた時点で「手術はしません」という人がいるのも頷けます。

ただし、値段が妥当かどうかを判断するには、値段だけを見ていてもダメで、内容と比べなければいけません。
この手術にどんな設備や機材や器具やお薬が必要で、手術に関わる人達にどんな知識と技術と体力が求められるかをある程度知っている身としては、非常識な金額とは言えないと思います。

手術の流れ

ここでは一般的な例を挙げておきます。
施設によって流れは違うはずですので、詳細はそのつど確認されることをおすすめします。

  • 紹介
  • 術前検査
  • 事前説明・相談
  • 手術日まで
  • 手術
  • 術後管理
  • 退院
  • 術後検査

紹介

犬の僧帽弁の手術はどこでも行えるわけではありませんので、ほとんどは手術ができる施設を紹介される形になります。
手術を検討したい場合は、まずはかかりつけの先生に相談しましょう。

術前検査

手術ができる病院に行っても「いきなり手術!」とはなりません。
まずはその施設で一度は診察を受けることになります。

検査の内容は愛犬の状態や施設の方針にもよりますが、心エコー検査、胸部レントゲン検査、心電図検査、血圧測定、血液検査、尿検査などが一般的です。
検査数が多く時間がかかりますので、検査日はまる一日スケジュールを空けておいた方が無難かと思います。

事前説明・相談

手術のできる施設で診察を受けた後は、改めて心臓の状態の説明を受け、手術についての相談に移ります。

  • 手術が可能かどうか
  • うまくいく見込みはどれくらいか
  • 手術のリスクの種類や程度
  • どういう流れで手術となるか

などを聞いた上で手術をするかどうかを決定することになります。

簡単な判断ではないですが、メリット・デメリットの両方をしっかり聞いて、納得のいくまで考えましょう。
手術を行うと決まれば、手術日などスケジュール決めを行います。

手術日まで

手術日までは病院の指示に従って過ごしましょう。
予定が立て込んでいて、すぐに手術が行えない場合は、途中で心臓の健診が入ることもあります。
輸血のため、供血してくれる犬を探す必要がある場合もあります。

手術

無事に手術日を迎えれば、あとは先生方にお任せしましょう。

術後管理〜退院

手術終了後はすぐ退院とはならず、入院での術後管理に移ります。
退院までの日数は回復の程度によって変わりますが、1週間はかかると考えておきましょう。

術後定期検査

退院した後も、心臓の定期チェックが入ります。
術後1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年といった感じで、経過が良好なら徐々に間隔が空いていき、最終的には半年〜1年ごとのチェックになるケースが多いようです。
また、回復にともなって徐々にお薬の種類や量は減っていき、最終的に全ての心臓薬を中止できるケースも珍しくありません。

手術ができる施設

犬の僧帽弁の手術ができる施設は国内でも多くなく、主に関東、関西、中部地域の動物病院となります。
いわゆる大都市圏になるので、地方在住の方が遠方から手術を受けにくる例も少なくないようです。

僕は関東で診療を行っているので

で自分の担当する子を手術してもらうことが多いです。

恐縮ながら知らない病院についてはあまり語れませんので、あなたの地域の施設については、かかりつけの先生と相談されることをおすすめします。
犬の僧帽弁手術に取り組む先生は徐々に増えてきているので、施設の候補も増えていくと思います。

誰もが悩んで当然です

たとえ手術の成功確率が高いと言われたとしても、お金が工面できたとしても、どこまでいっても悩みがゼロになるわけではありません。

  • 手術をしなくても、このまま何とか保ってくれないだろうか?
  • 手術を受けさせるのは自分のエゴではないか?
  • 手術によって痛い思いをさせたらどうしよう
  • でも手術をしないことで苦しませたらどうしよう

など、悩みが尽きないのは普通のことです。

「愛犬が喋って自分の意思を教えてくれたらどんなに楽か」もよく聞く声ですが、現実には飼い主であるあなたが決めるしかありません。
時間をかけて自分と向き合い、自分と愛犬にとっての優先順位を考えてもらえればと思います。

とは言え、全てを1人で抱え込んで、飼い主さんが潰れてしまうのも良くありませんので、ここはバランス感覚が大切です。

個人的には病気の情報をSNSなどで集めるのは良くない情報に振り回されやすいのでおすすめしていませんが、大きな決断を前にして、同じく手術を検討中の人や、すでに手術を終えた人など、自分の気持ちを分かってくれる他の飼い主さんと交流するのはあなたの心の支えや安定に役立つかもしれません。

このサイトの情報も、少しでもあなたの判断の助けとなり、負担を減らせることを願っています。